めも。

長文ツイートの墓場みたいな感じ。

「嘆きのピエタ」

 

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※個人の主観です。
※やたら偉そうに書いてますがさほど知識もない素人の感想です。
※思いっきりネタバレしてるので大丈夫な方のみどうぞ。



 



Pietà:哀れみ、慈悲
キリストの遺体をひざに抱いて嘆き悲しむ聖母マリアを表す絵画・彫刻の主題


ストーリーはとてもわかりやすく、正直なところ映画の半分ほどで母親を名乗る女性がなんなのか、なんとなく予想できる。
そのうえ最終的に復讐も完遂されてしまうので予想外な展開やミステリーを期待して観るには向かない作品だろう。
それよりも主人公ガンドの行動やそこから読み取れる“彼自身”を本人ではなく周りの人間の言葉によって描き出そうとしているのがとても興味深かった。

ガンドという人間は恐らく弱く、そして幼い。
彼が借金を取り立てに行ったその先々で殺すことなく障碍者にする、という中途半端なやり方を繰り返していたのはそのためであろう。
彼は命を奪う勇気まではなかったのだ。
「俺の死にそんなに責任を感じるな」と言って飛び降りた男を、悲痛な顔をして見もしない彼を見てそう感じた。
(実はもう一箇所、あ、彼は殺すことまではできないんだ、と感じた箇所があったのだが残念ながら失念)
ウナギを殺したのも、ウサギが死んでしまったのも、彼の手によってではなく(ウサギは間接的ではあったものの)女の手によってであったのもそれを意図したものだったのか、と思ったのだが、鶏は殺せていたのになあと少し疑問に。

それと、ガンドの部屋は彼自身そのものなのかな、と。
女は部屋に踏み入り、そしてその執拗さに負けたガンドは“部屋の扉を(彼女のために)開放した”。
部屋の扉を開けた、あの瞬間に彼は女に負けたのだと思う。


マリアである女は、キリストである息子の亡骸を抱きながら嘆いて、けれど復讐の対象であったガンドもまた息子と感じてしまうことに嘆いていた。
深い意味があるのかないのか、こちらに真意はわからないけれど、“嘆き”を繰り返した意味はそこにあったのではないだろうか。
なぜこの作品が『嘆きのピエタ』なのか、の解釈はそれぞれにあると思うけれども。

ガンドに女を母と錯覚したまま、自分が今まで障碍者にしてきた人たちのところを巡らせたのは、最後女を埋める際本当の息子を見つけて女の嘘に気づいてしまったうえで
あの最後に繋げるために重要な要素だったのだろうと思う。
偽りの一瞬でも愛情を経験して、自分が今までしてきたこと、そのために狂ってしまった人たちの今を目の当たりにする彼を見せることで、彼の最後の行動に説得力をもたせているのかなあなんて。



この映画には完全な善も存在しなければ完全な悪も存在しない。
現実の世界ってそういうものだけれど、創作においてはたとえ現実の世界を舞台にしていても完全な善と完全な悪をつくってしまいがち。
そういった意味でとても人間的で、なにかすっと自分の中に入ってくる作品だったなあと。