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めも。

長文ツイートの墓場みたいな感じ。

舞台「金閣寺」




初日4/5:下手ブロック2列目
アフタートーク4/10:センターブロック2階最前列
千秋楽4/19:センターブロック5列目
原作は千秋楽前に読了。

 


 率直な感想としては、「好きなもの×好きなもの=好きなもの、になるとは限らないんだな」といったところ。

 この舞台は“三嶋由紀夫の『金閣寺』を舞台化した”作品ではなく、あくまで“宮元亜門の「金閣寺」”でした。彼が原作小説から重要だと思ったところを抜き出して繋ぎ合わせて作られていて、だから彼の感覚と自分の感覚が一致していればここまでの違和感を感じることはなかったのかもしれない。具体的に言えば、わたしが原作のなかで大事だと感じた猫の説法のくだりや、溝口の金閣が空襲で焼かれる(金閣が火に包まれるという幻影)に対する固執、終盤で見た故郷の海への失望、「神隠しのようにいなくならねばならぬ」という感覚、そういったものが舞台では描かれずにいたことに違和感を覚えてしまった。
 この場面に限ったことではないけれど、全般通して宮元亜門の「金閣寺」は饒舌だなあ、という印象を受けた。三島由紀夫の『金閣寺』があくまでも寡黙というか、静かなイメージがあったので余計にそう感じたのかもしれない。でもそれが舞台と小節という表現の媒体の違いによるものなのか、演出の意図的なものなのかはわたしにはわからないけれど。ただ、舞台上の溝口や鶴川や柏木は感情豊かだなあと。小節の彼らは、もっと物静かで内に秘めた感情の扱いどころに困惑している印象。いや、舞台上の彼らも困惑してはいるんだけれど、困惑の仕方が違うというか、その戸惑いの発露の仕方が、舞台の彼らは外に向かっている感じがした。でもやっぱりそれは、舞台という表現方法故なのかなあ。それでも、あんなに怒ったり、泣いたりする溝口や鶴川はいまいちわたしの印象とは違うけど。ただ、柏木に関してはとても納得のいくテンポだった。水橋さんの柏木は、わざと大仰に、そして滑稽に見せることで本心を隠そうとするところが、わたしの柏木のイメージと合っていた。むしろ逆に彼の柏木は隠し方が洗練されすぎていて、小説の柏木の方が幼く見えたぐらいだった。
 この流れのまま溝口、鶴川についても書くけど、まず溝口。彼が一番、小説と違って饒舌だなあと感じた。まあでも小説は地の文であってセリフになっていないところも溝口が(心の中で)しゃべっているわけなのでやはりある程度表現媒体の違いの問題か。いくつか表現?脚本?の面での違和感はやっぱりあった。特にひっかかったのは、父が死んだときの溝口の描写。あれだけは、どうしてああいう解釈になったのか聞きたいぐらい違和感だった。あんなに嘆き悲しむ溝口を、わたしは小説からは読み取れなかった。それと母と叔父の関係に重きを置いていた点。わたしは小説を読んで、溝口が童貞を脱せられないのは、ひとえに金閣寺という美への意識のせいのみだと感じていて、それでこそ溝口の、『金閣寺』の異常性というか変態性が際立つと思ったのだけど、あれをトラウマとして重点をおいてしまうとなんだかすごく現世的なものにおちてしまうなあと感じてしまった。それと、溝口が饒舌であったが故に相手と対峙している間がなくて、なんだかとても薄っぺらい人間に感じた。けど今思うとその通り彼は薄っぺらい人間だったのかもしれないな、とも。三嶋の文章にごまかされて、なにか大層な人間であるような気がしていたけれど、実際には彼はこの舞台のうえの彼のように自分は被害者であって救われるべきとの意識のうえで自分を正当化して逃げているだけの、薄っぺらい人間なのかもなあ。それは語られていない部分なので各々の解釈の仕方か。柳楽くんはさすが、といった感じ。彼、目がすごく大きいのでいろんな感情がそこから読み取れてすごくよかった。それと最後金閣を焼く前に、ものすごく幸せそうな顔をして涙を流していたのが印象的で、原作解釈に対してのいろんなもやもやも、もう彼のあの表情だけでまあいっかと思えてしまうぐらいだった。(泣いていたことに気づいたのは千秋楽のみだったので、毎回なのかどうかはわからず)
 最後に鶴川。先述したように、感情の豊かさという点において鶴川も例外ではなかった。無邪気にはしゃぐ鶴川と溝口は新鮮だったけれど、そういう彼らもいたんだろうな、と思えたのでよしとする。少しひっかかったのは娼婦の件を溝口に尋ねた際の「君そんなことしてないよね?」の強さ。特に千秋楽において。あんなに掴みかかるようにして詰問する、といった印象はなかったので驚いた。もっと静かに、一片の疑いもないかのように尋ねるさまを想像していたので、あんなに必死に弁解を迫るような言い方をするとは思わなかったし、正直違和感だった。それと、個人的に鶴川を表現するうえでキーになると思っている「持ってないんだ、なにも」の言い方に波があったのも少し残念なところ。わたしとしては千秋楽が一番しっくりきたけれど、航生の解釈の正解はどれだったんだろうか。今回は航生を目当てに行ったというのもあって鶴川に関するメモ書きが多い。小説では描かれなかったところも舞台では見えていたりして、サイドである鶴川に関しては発見も多くて楽しかった。表情や動きが目に見えるってすごいなーと。特に感じたのが、「母が危篤なんだ」のとき。小説では溝口目線で、鶴川の感情は見えてこなかったけれど舞台であのシーンを見て、本当はあのとき彼は「母が危篤」ということを伝えたかったのではなくて、自殺するに至る理由となった悩みを告白しようかどうしようかと思っていたのかな、と思った。鶴川と溝口は、お互い相手に受け止めてほしい感情があって、でもそれがお互いのイメージと相反していたせいで大きなすれ違いを起こしていて、お互いがお互いに一方通行で報われなかったんだろうな。このシーンで鶴川は溝口にどういう言葉を期待していたからわからないけれど、溝口が娼婦の件を鶴川が詰問することなく受け入れてくれたら正直に懺悔したと言っていたように、そういう気持ちがこのときに鶴川にはあったんだろうな、と。航生の演技に関しては、素人目なので大それたことは言えないけど、印象として言うと得意分野不得意分野がわかりやすいなあといった感じ。静かにしゃべるときは感情の出し方もすごく上手なんだけど、ちょっとでも感情の振れ幅が多きくなるとその途端ものすごく力むというか。今回初日はすごく落ち着いててよかったんだけど、特に10日がものすごく力んでいるというか焦っているというか走ってる(これって音楽以外でもこの表現するのかな?)感がすごくてがんばれ~><といった感じだった。個人的な感覚なんだけど、舞台での演技においてはあくまでも“演技”じゃなきゃいけないと思うんだよね。だから役として焦っているときもあくまで“焦っている演技”としての余裕が必要だと思うんだけど、それが彼は本当に焦ってるみたいになっちゃってて、せわしないというかなんというか。今後の成長が楽しみ。
 さて演出に関してなのですが、原作を横においやったうえで純粋に舞台芸術として考えてみると本当に好みの世界観だった。舞台というよりも現代美術。会田誠さんのイラストのイメージが真っ先に浮かんだ。上半身裸のダンサーも、人間と言うよりもあくまで肉体であり物体。肉以上の何物でもない感じが、すごく現代的だし、宮元亜門という印象だった。それとアングラな感じ。初日観劇後に思ったのが、ライチみたいだなあ、だった。下品で、醜悪で、それがどこか気持ちいい空間。そう考えると本当に、原作とは正反対の世界。近くから見ていたときはあまり気づかなかったけれど、2階から見たときに、ものすごく舞台上が暗いな、と気づいて、そのときに誰かの映像作品のようだなと感じたんだけど誰のなのかはわからずじまい。スポットの使い方がすごくおもしろくて、それだけでいろんな風景をつくりだしてしまえるの、よくあるやり方かもしれないけど魅了された。映像の使い方もおもしろかった。金閣の目、近くで見たときは気づかなかったのだけど、2階で見たらちょこちょこ出現していて、あの不気味さがよかった。けど上から見ないとわかりにくいから1回だともったいないなあ、なんて。それとナレーションが入るの、すごくおもしろいけどナレーションの人たちが普通に現代の衣装で、どう見ればいいのかわからなかった。現実に引き戻されるというか。あとは溝口が旅に出る電車の中で見る走馬灯の表現が、すごくよかった。あの奔流にのまれる感じはやっぱり音のある表現方法じゃないとできないよなあ。
 三嶋が登場人物の感情を外的に表現する際に用いているのが色であるのに対して、亜門さんは音だったのがおもしろかった。ホーメイもそうだし、それ以外にも扉や床を鳴らす音の使い方が、ある程度使い古された方法ではあるんだけど、いいアクセントになっていた。ただセットのたてつけの問題なのかちょこちょこ歯切れが悪くてもったいないな、と。場所の問題だったのかなあ。



 とまあこんな感じでした。やっぱり複数回観劇するといろんなことに気づけて楽しいですね。

 直接本編とは関係ありませんが、アフタートークの時に「鶴川と自分、ここは絶対に違うというところはどこですか」と聞かれた航生がふとこぼすように「しなない。」と答えたあと、自分で驚いて弁解するように「自殺するほどの闇を抱えていたのにそれを隠しとおしていたところに共感したけれど、僕は彼みたいに自殺は絶対にしないし隠しとおします」と答えたのを聞いてほんとうにあなたは…となりました。